「映像」より「文字」が好き

ちょっと前ですが、こんなエントリを読みました。

 

ふたり - ruru on the roof

 

 本当になんてことない日常をつづっているだけのエントリなのですが(失礼な言い方しかできなくてすみません)、こういうの、ものすごく好きです。幸せというのは、こういう日常的なところに感じることが大半なのだろうなーと考える今日この頃です。将来はこんな家庭を築きたいと思います。

 

さて、上記エントリを読んでちょっと思ったことをまとめておきます。

 

上記エントリを読んで、どうして私はこんなに感銘を受けたのか?というのをぼんやりと考えていたのですが、1つは純粋にあのような関係に憧れているという点があります。もう1つは、これが今回の主題なのですが、ブログという「文字」だけが訴えかけてくる環境だったということも結構大きいと思いました。

 

というのも、何かを表現する方法には、「映像」と「文字(文章)」というように分けることができます(他にもあるだろ!ってのは置いといてください)

 

「映像」の特徴としては、基本的に画()+音で成り立っているところです(無音の映像って現代ではあんまり聞かないのでセットにしました)。他方の「文字」の特徴としては、文字のみです(なんか変な感じですがw)

 

で、この「映像」と「文字」の違いを考えてみると、視覚を必要とするという点では共通しますが、「受動的か」、「主体的か」という決定的な違いがあると思います。

 

映像は基本的に受動的です。どんなルックスの役者にするか、撮影場所はどんなところにするか、このシーンのサウンドはどうするかなど、まずはある程度作りこまれたものを受け取ることになります。つまり、ある程度の枠組みを作り手に与えられた上で、自分の感情やらとすり合わせていくかたちになるので、作り手が考えていることと、自分(受け手)の考える「こうあってほしい!」という感覚に微妙なギャップが生まれるような気がします。

 

また、映像の場合はその性質上、どんどん先に進むので、ペースも映像側(作り手)が握ることになるので、この点も受動的かと思います(レンタルなら一時停止できるだろ!というのはまぁまぁ。)。さらに、サウンドがその映像の雰囲気を決めるというような話(例えば、原爆が落ちた映像でも、コミカルなサウンドだとコミカルな映像に見えてしまう)もあったりするので、ここにも作り手の意図が入ってきます。

 

 

他方の文字は、基本的に主体的です。確かに書き手にも色々な想いはあるかと思いますが、なんといっても「文字」しかないので、「映像」以上にインパクトを与えることができません。したがって読者にとっては想像の幅が広く、映像よりも自分の世界を作りやすいのです(作り手と受け手のギャップが生じにくい。というより受け手の中だけで完結できる)また、文字の場合は自分のペースで読めます。あるページに感銘を受けたなら、そこでゆっくりすることもできるし、面白くなければ飛ばすこともできます。

 

こう考えると、原作を映画化することに抵抗を覚える、あるいは映画化されたものを観たけど、正直微妙だった、という感想を持つ人が一定数いるというのもなんだかわかる気がします。私もどちらかと言えばこういうタイプです・・・

 

このように、上記のエントリにやたらと「いい!」と思えたのも、結局自分が理想と思えるものを自分で作り上げることができたこと、かつそこに自分のペースで入り浸ることができたからなのかな?と思いました。

 

 

繰り返すようですが、要は「映像」という与えられた枠組みよりも、「文字」という勝手に自分の世界(登場人物の容姿、風景、サウンドなど)を作り上げることができるものの方が自分は好きだという話です。

 

どっちを好むかは人それぞれだと思うので、私がとやかく言えることではないです。それぞれが好きなように楽しめればそれでいいと思います。私の場合は、上記のような理由で文字のほうが好きだというだけです。

 

これをまとめてみて、自分が映画よりも本のほうが好きな理由が少しわかった気がします。

 

 私以外の方々は、「映像」と「文字」だったらどっちが好きなんですかね。それぞれにいいところがあるからどっちとも言えないという人が多いのでしょうか。案外気になります。