読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ミクロとマクロは分けて論じたほうが良いと思う


読みました。随分前のエントリですが、下書きに入れたまま投下するタイミングを失いまして・・。でもせっかく書いたので上げておきます。


子供を育てるのに必要な年収は「子供が欲しい度」によって変わる - 指揮者だって人間だ



この記事に対する批判というわけではないのですが、これを読んで思うところがあったのでまとめておきます。

ミクロ的思考


とりあえず話のとっかかりとして、上記記事から引用させていただきます。

少子化対策の議論で「これだけ低い年収だったら若者は子供がほしいとは思わない」という論調をよく見ますが、私は全く逆で年収が低くても子供が欲しい人は勝手に子供を作ると思っています。
逆に言えば子供が欲しくない人は年収が多少上がっても子供を持とうと思わないのではないでしょうか。


これは確かにそうかもしれないと思いました。私自身を考えた場合、現状子どもが欲しいとは思っていませんが、今後仮にお金に余裕ができたとしても、子どもが欲しいと思うかどうかは微妙です。つまり、にょっきさん的に言わせれば現状の私は「子どもが欲しい度」が低いのだと思います。



ただ、これはあくまでミクロ的な思考、つまり個人レベルの話であり、内面的な話なんですよね。

マクロ的思考


では、このミクロ的な考え方を政策論に持ち込んだ場合を考えてみるとどうか。例えば、

いくら年収が上がったからといって、子どもが欲しい欲しくないは結局のところ個人の判断に依拠するものであるから、政策としてすべきことは何もない。


という主張が国としてなされたとします。※極論ですが架空の話なのでご勘弁を。
つまり、子どもを産む産まないという判断において、子育てをする上での外部要因(教育費、年収などなど)は関係ないという主張です。これを国として(マクロ)言い出すのはまずいと思います。(別に国がそんなことを言っているとは思っていないのですが)



個人レベルで子どもが欲しい欲しくないを考えるのは自由です。でも、社会を持続させるという観点から言えば、少子化対策は必須だし、人間も生き物ですから子孫を残そうという本能がどこかにあるわけで、深層心理では子どもが欲しい人が自分も含めて多数派ではないでしょうか。あくまで推測ですけれど。もしそうだとすれば、社会の持続という観点から言えば、子どもが欲しくない、もしくはどっちでもいいと思っている人も、ちょっと余裕もあるし、子どもがいてもいいかもな!と思わせる制度設計(外部要因)を考えていくことは政策として重要だと思います。

まとめ


架空の話でなんだかとっ散らかってしまったのでまとめます。要するに、全体(マクロ)として考えることと、個人(ミクロ)として考えることは分けて論じるべきだという話です。子どもを産む産まないは個人の自由なのですが、マクロな政策論として、幸せは個々人で違うから…と言い出すのはちょっと無責任だろうなぁと考えています。合成の誤謬というのもありますしね*1。別に国が政策を丸投げしていると言いたいわけではないのですが、日本は割と何でもかんでも国に頼るな的な自己責任論が優勢な気がするので、こういうのを書いておくのもありかなと思ってまとめた次第であります。


*1:個人が自分にとって合理的でプラスだと判断した行動が、全体としてはマイナスになるという話。例えば貯蓄。貯蓄は個人にとっては合理的な判断だと思われるけれど、経済全体としては消費の低迷につながる。