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同世代のすごい人が私の危機感を煽る

ひとりごと・コラム系


先日、とある読書会に行ってきました。内容はヘーゲルの著書である『歴史哲学講義』の解釈について。とにかく話が抽象的すぎるし、内容を理解するためには時代背景を踏まえた様々な前提知識を必要とするため、本当に意味がわかりませんでした。第1回から参加していたわけではないので、その分の積み重ねがないということを差し引いたとしても到底理解できるものではなく、勉強不足を痛感した日でした。



そんなことを感じている私をよそに、その内容を普通に解釈して質問やら議論やらをぶつけ合っている教授陣を見ていると、「この人たちは本当にすごいな。」と純粋に尊敬すると同時に、「確かにすごいと思うけれど、生きてきた時間の総量が違うのだから、ある意味当たり前とも言えるよなぁ。」と思っている自分がどこかにいるのです。じゃあ自分がその年齢になった時にあれだけの議論が交わせるかと問われれば、大いに疑問符がつくのですが。



つまり、自分より上の世代の人達のすごさを見たところで、尊敬はするけれど、はっきりとした危機感が持てず、どこか本気になりきれないのです。どこかで「当事者意識を持てないから本気になれない」的なエントリを読んだ気がするのですが(あんまり覚えていない・・)、それと近いものがあるかもしれません。



では、どういう時にはっきりとした危機感を持つのか。それは同世代(とりわけ同い年)で自分より圧倒的な力の差を感じた時です。生きてきた時間の総量はほとんど変わらないのにもかかわらず、この差はなんなんだ・・・。そう感じた時に、私は危機感を持ちました。



このことを実感したのが高校生のとき。1つは勉強でのことでした。当時私は日本史を選択していて、日本史の知識に関してはそれなりの自信を持っていました。実際、周りと比べて点数も良かったように思います。しかしあるとき、日本史の知識で負ける友人に出会いました。しかもその友人、選択していた科目が世界史。世界史に関する知識はもちろん豊富で敵いません。それに加えて選択していない日本史ですら、日本史を選択している私より圧倒的な知識を持っている。更に他教科でも1つも勝てない。愕然としました。



しかもそういう人に限って勉強しているようには見えない。なんなんですかね?あれ。なぜあんなにできるのかが全くわからない。同じ時間を生きてきたはずなのに。それを才能と片付けることも出来たのだろうけれど、日本史に関しては自分が自信を持っていただけに納得ができませんでした。ここで初めて私に危機感が生まれ、今まで以上に勉強するようになりました。



もう1つは高校の野球部で。私は中学まで普通にレギュラーとして試合に出ていました。最上級生にもなればレギュラーは当然。それくらいに思っていたような気がします。だから高校でも3年になる頃にはレギュラーに。そんな感覚でいました。しかし、実際に入ってみると、同輩が1年生にもかかわらず試合に出ていました。圧倒的な実力差。自分が今までレギュラーでやってきて、それなりに上手いと思っていたのに、自分はベンチにも入れず応援、他方で同輩はレギュラー。全然ダメじゃないか自分。ここでも危機意識が生まれ、練習への入れ込み方が変わりました。



☆☆☆☆☆
というように、私の場合は同い年で自分より1歩も2歩も先に行っている人に出会った時に、今の私だと全然足りない・・・ヤバイ・・・と思わされるのです。とりわけ自分がそれなりに自信を持っているものを同世代に打ち砕かれる。これが私の中の本気スイッチを入れるものの1つなのだと思います。同世代ですごい人にもっともっと出会いたいなぁ。こうやって自分のモチベーションが外部環境に左右されるというのは運的要素を大きくするということなので(しかも同世代のすごい人という限定的なもの)、本当は自分の内側からみなぎらせるような何かを身につける必要もあるのかもしれないけれど、今の私には出来そうもないです。



なんてことを、意味がわからなさすぎる読書会に参加しながら考えていました。え?なんでそんな意味の分からない読書会に参加するかって?話の合うレディがいるからに決まっているでしょう!こんな邪な考えで参加している時点でヘーゲルを理解できるわけないですね。すみません。