卒論報告会が終わりました―学問ってなんだろう
先日、卒論報告会が終わりました。卒論を書き上げてから結構な時間が経ってからの報告会だったので、内容を忘れかけていてヒヤヒヤしましたが、何とか無事に終わりました。
そんなわけで、4年間の総括ってほどでもないですが、報告会を通じて考えたこともありますので、つらつらとまとめておきたいと思います。
実現可能性は別次元の話?
報告会に参加して、こんなこと↑を考えました。
というのも、それぞれの報告を聞いていて、それなりに説得力はあるなぁと思わされるところはありました(あくまで学生なりに、ですけれど)。大雑把ですが例えば、
現状の日本の制度にはこういう問題があります。他方で他国ではこんな制度でうまくいっています。だからこの方向性にシフトしていくことが必要だと思われます。
というのが代表的な論だと思います。まぁこれに関しては日本と他国での社会背景の違いなどを踏まえると、本当にその制度は日本に適合的ですか?というツッコミをしたくなるわけですが、100歩譲ってとりあえずこの論が正しいとします。
で、仮にこれが正しいとして、
これは実現できると思いますか?政治的な関係でやっぱり難しいのかなぁなんて思ったりするのですが…。
的な質問を試みるのですが、その回答が、
実現可能性についてはまた別の話です。論理的に考えた結果こういう結論になりました。これがひとつの成果です。
という回答を受けます。先生たちも、うんうん的な。
私はなんだかすごく場違いな質問をしてしまったようですw
学問ってなんだろう
言いたいことはわかるんですよね。政治的利害云々を抜きにして、まずはデータを用いて論理的に分析を進めて結論にたどり着く。そうでないと論文って進まないですし。わかるけれど、それってどうなんだろう?と私は思ってしまうのです。
学問というのは、何かしら社会に役立たせる、もしくは何か問題を解決するために行うものだと私は思っています。そうだとすれば、実現可能性を完璧にとは言わないまでも、多少は考えるべきではないのでしょうか?いくら論理的には正しいとは言っても、実現可能性が伴わなければそれは机上の空論であって、誤解を恐れずに言えば趣味の領域を出ないような気がするのです。
それとも、論理的に回答は出した。だからそれを参考にしつつ、実現可能性については別の人が考えてやって下さい。ということなのでしょうか。もちろん、ここまで言い切っていたわけではないので、どこまで考えているのか、本当のところはわからないのですが。こういうのを見ると、以前に橋下徹さんが学者批判をしていたのもちょっとわかる気がしてきました。
まとめ
自分自身の卒論も、実現可能性に関することを検討する余裕など正直ありませんでしたので、偉そうなことは一切言えないわけですが、少なくとも「実現可能性は別次元の話です」と割り切りすぎるのはよろしくないんじゃないかなと思った次第です。論理だけを重視した論文を仕上げたあとで、それを踏まえて実現可能性を加味した論文を書くとか、方法はあるようにも思います。実際にそういう風にやっている方もいらっしゃるのですかね。詳しいことはわかりません。
報告を聞きながら、学問は楽しいなと改めて思うと同時に、微妙な違和感の残る、そんな1日でした。
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